盲目になれるくらい、恋という感情に溺れられたら、世界は輝いて見えるだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えながら、カヨを見ていた。パンティ一枚だけ身に纏った姿でベッドに座り込み、ブラジャーのホックを掛けようとしている。彼女はこちらに背を向けて、脚をちょこんと折り曲げて座っている。シーツの波間に脚が見え隠れして、ベッドは静かに沈んでいて、この空間を揺るがしてはいけない気がしたおれは音を立てないように静かに呼吸をした。
窓から漏れる月明かりとも街灯ともつかない僅かな灯りが彼女の身体の輪郭を映し出し、ちょっとはっとするくらい美しい光景だな、と思う。
「……着けてあげるよ」
手がもつれて上手く出来ないカヨの背中に回り、ブラジャーのホックに手を掛けて合わせた。
「ありがと」
バツの悪そうな声。けど、恥じらっているようにも見える。さっきまで、お互い裸で抱き合っていたのに、今更なんだけど。
誰かと繋がりたい。
そう、強く想うときが時々あった。そんな時は、カヨがいてくれてよかったと心の中で感謝する。
心にぽっかりと穴が空いたような、何処か満たされない気持ちに不意に襲われるのだ。こんなことは、生きていればきっと誰にでもあることだから、原因がなんなのかなんて突き止める気は毛頭ない。
けど、こんな時に抱き合うのは勇気が要った。
繋がりたい気持ちが空回りして、決まって上手くはいかないのだ。早く繋がりたい、快楽を得られるようにしなきゃ、このわだかまりのような空虚感をぜんぶ体内から吐き出してしまいたい。
それが叶うのは、セックスが終わる瞬間だけだった。
その一瞬が過ぎ去ってしまえば、また元に戻ってしまう。下手したら、以前より悪い状態にまで落ちてしまうような気さえした。だから、出来るだけ体力を消耗しきって、全て忘れて無になりたかった。疲れ果ててしまえば、後は泥のように眠ってしまえばいい。目覚めた時に見る朝日は、新しい可能性を感じさせてくれるから。
「ねぇユキ、聞いてる、」
遠くで誰かの声が聞こえた。カヨの声だろう。その呼び名でおれに語り掛けてくれる声は、心地いい。心地よくて、すきだ。
彼女は何かを云っていたが、脳が虚ろで聞き取れない。辛うじて薄目を開けて見ると、キャミソール姿の小柄な女の子が見えた。
それが一瞬、サチ姉に見える。いや、違う。ここにいるのはおれの恋人のカヨ。そんなことは判っているのだ。
けど、夢と現つの区別が付かなくなってきている。目の前の女性が呼び掛ける。母親のようにも見える。遥か遠くで近くに聞こえる声が、ユキ、ユキちゃん、と云っている。ユキちゃん、ユキちゃん、ユキ。
そうだ。
いま急に、ぜんぶ判ってしまった。
こんな気持ちになる原因は、あなたが作ったんですよ。
○ ◎ ○
「あいを確認する行為」
そんな言葉と共に伸びてきた彼の手が、あたしの顎に触れた。その指先に付いたクリームを、ごく自然に自分の口に入れる。何の躊躇いも無く。
あたしは何だかすごく恥ずかしくなって、何も云えなかった。一人で食べていたクレープをこぼしていたというお子様な行動が恥ずかしかったのもあるし、街中で誰の目も憚らずに恋人の顔に付いたクリームを口に運ぶという彼の行動事態も何だか恥ずかしく思えた。
「なしたん、」
何も云えなくて少し俯いてしまったあたしに、彼は心底不思議そうな様子で声を掛けてくる。なんでもないよ、と強い調子で云うあたしに彼は、可愛い、って云って微笑んだ。
「いつかこどもが出来てもさ、きっとこうやって街を歩くんだろーな」
なんでもないことのように、ごく自然に彼は云う。
「カヨと娘がさ、クレープ頬張りながら、ふたりしてクリーム顔に付けてんの。おれ一人じゃ、面倒見切れないよ」
楽しそうに笑いながら彼は語った。
こども。むすめ。
あぁ、そうか。この人は、いつかあたしと結婚して、娘が出来たときのことを想像出来るんだな、とおぼろげに思った。そこに、信憑性や、現実味は伴っていなくても。
でも、何となくあたしは彼との間に出来るのは娘ではないような違和感を覚えた。何故だろう。息子だったら。息子だったら、あたしはふたりと仲良くできるの。
いや。今きっとあたしは、居もしない架空のムスメという女の存在に怯えたんだと思う。
何だか彼を、その女に半分取られたような気がして。
なんて、嫉妬深いんだろう。
ぜんぜん可愛い女じゃないよ、あたし。心の中でこんな黒い感情があるなんて、絶対彼に知られたくない。
あたしはいつも独り相撲をしている。
彼は、そんなあたしの気持ちなんてきっと考えたことはない。
いつも無責任に、思ったことを簡単に口に出した。一緒に住んだらこんな家具を置きたいだの、老後はふたりで旅行三昧の生活をしたいだの、今みたいに、ふたりの子供の話だのを。
それらを、悪びれることなく、ごく自然に、口に出すのだ。まだ、ハタチのクセに。
夢なんて、きっと若いうちのほうが語れて希望が持てるものなんだろう。現実味を帯びてくる年齢になると、きっと憚られ出す。
彼にとっての結婚の二文字は遠い未来の出来事で、それは三つ年上のあたしにとっても同じ次元だという認識なんだと思う。
けど実際は違うのよ。たぶん。
だってあたしは、年上の自分がどこかで彼をエスコートしてあげなきゃって、焦っているの。そう、例えば、ベッドの中で。
「焦んなくていいよ」
裸で抱き合ったまま、あたしは云った。
彼はセックスが不得意なんだろうな、と薄々思っていた。いつも身体を求めてくる素振りは見せるけれど、実際に射精に至るまで行為を続けられることはあまりなかった。そしてあたし自身も、彼の愛撫で満足出来ることは無い。
「うーん……やっぱり、疲れてんのかな、おれ」
勃起しても上手く繋がれないことに、彼は焦っていた。
あたしはそんなことはあまり気にならなかった。どちらかというと、ただ肌をくっつけている時間が長い方がすきだから。愛撫やセックスという行為そのものよりも。女の子は、大抵そういうものだとあたしは思っている。
それに彼の愛撫は単調で、自分本位な気さえしていた。
いや、彼だけじゃない。今まで付き合ってきた男はみんなそうだった。自分の勃起に合わせたリズムでしか指を動かせない、でもそれは人間なんだからしょうがない。あたしだって、相手が何をすれば気持ち良くって、何をすれば満足かなんて、判らないのだから。
それに、こういうことは言葉で聞いても意味がないのだ。気持ちいい、って聞かれたとしても、ノーとは答えられないし、自分のして欲しいことなんて崖から飛び降りるくらい勇気の要ることで、とても自分の口からは語れない。
身体の相性なんてものが本当にあるのだとしたら、あたしたちは悪いのかもしれない。若しくは、あたしの女としての魅力が、足りないのかもしれない。
でも、それらを原因にはしたくなかった。
彼がまだ若いから。経験が浅いから。最近は刺激の強い自慰のための動画が世の中に溢れかえっているから。そう思って、気にしないようにしてた。
「じっとしてて。あたしが、気持ちよくしてあげる」
疲れてる、と云った彼の代わりに、今度はあたしが被さった。彼が痛くないように、角度に気をつけながらゆっくりと動く。世の中の男の人は、どうしてあんなにも激しく腰を振れるのだろう、とヘンなところで感心してしまった。あたしには、一生真似出来そうにない。
「カヨちゃん、カヨちゃん」
少し苦しそうな声が聞こえた。彼は、セックスのときだけあたしの事をカヨちゃんと呼んだ。なぁに、と優しい声で尋ねてみると、ちょっと痛い、と返ってきて慌てて動きを止める。そして落ち込むあたしに彼は追い討ちを掛けた。
「あとね、もうちょっと、ぎゅって締められないかな」
思い遣りは何処まで、いつ、出せばいいのだろう。
でもきっと、恋人関係のときに出せる思いやりなんて、二人で過ごすはずの甘い時間でしか、推し量れないような気がするのだ。
そう、例えば、ベッドの中で。
○ ◎ ○
「あいを確認する行為」
だから、気にも留めたこと無かった。アオイの言葉を聞くまでは。
「え、もっかい云って。カヨちゃん今いくつだって、」
「……女性の年齢を何度も聞くなんて、失礼だとは思わないの」
あからさまに不機嫌な声を出しながらあたしは小さく、ニジュウサン、と答えた。
「だよねぇ。じゃあ、二十三年間、オーガニズムに達したこと無いんだ」
云った傍から大声でニジュウサンと口にされ、怒る気も失せてしまった。しかも居酒屋といえど、堂々と隠語に近い言葉を発する。アオイにはデリカシーという概念そのものがきっと無いんだろう。そんな男に配慮を求めるだけ無駄だ。
「じゃあさぁ、アオイくんは彼女の反応とか気にしながらエッチしてるわけ。自分本位な快楽に浸ってないって、断言できる、」
出来ないでしょ。と決め付けて掛かると、意外にも彼は、出来るよ。と即答した。
「俺ね、イキにくい体質なんよねー。だから、彼女に気持ちよくなって貰うことにいつも全力投資してんの。男は射精したら終わり、だなんて思ってたでしょ」
意地悪な笑みを湛えながら、アオイはテーブル越しのあたしの顔を覗き込んでくる。言い返す言葉も無く黙り込んだあたしの前で、彼は右手の指をくねくねと動かす。
「ちょっと、その指の動きヤラシイ。やめてよ」
生娘ぶるなよ。と時化た面をして手を引っ込める。
「で、本題だ」
急にアオイが真面目な声を出した。
「カヨちゃんは、何が不満なの。今のカレシに」
思わず、息を飲んで彼を見ると、ばっちり目が合った。黒い伊達眼鏡の奥の、意外に大きなアオイの目が細くなる。
「桧山モータースの食堂で働いてる、若い男だったよね」
前に、一度だけ云ったことがある。あたしが付き合っている男の子の話を。それを、アオイは覚えていた。
アオイは同じ派遣会社に登録しているバイト仲間だ。ずっと年上だと思っていたけど、最近知った年齢はあたしと同い年で、バイトで食い繋いでいるフリーターらしい。いい年して専門学校に行きなおしているあたしのことを、カヨちゃんは偉いわ。などとよく持ち上げた。
派遣会社から来る仕事は何パターンか合って、あたしはよく桧山モータースという自動車整備工場の部品洗浄係りのバイトに当たっていた。「彼」は、そこの工場の食堂で調理師をしていた。
食堂、といえば、オバチャン、というイメージが先行するように、実際働いているのはパートらしき中年の女性が大半の中、ひとりだけ若い男の子が混じっていた所為で直ぐに顔を覚えてしまった。向こうも向こうで工場という職場柄、若い女の子のバイトが少なかったお陰か、覚えてくれていたらしい。
そんな出会いの中、交際はスタートした。
彼が、何故あたしに惹かれたのかなんて、深く考えたことはなった。単に少ない出会いの中で現れた女の子があたしだったんだろうな、という程度でぼんやりと思ったことがあるくらい。
あたしはというと、食堂にぽつんと浮いた存在のように居る彼が、とっても飄々と仕事をしていて、喋りかけたときに見せる笑顔の奥にある、どこか淋しげな眸にとてつもなく惹かれてしまったからなんだけど。
「不満なんて、無いのよ」
確認するように、言葉を噛み締めながら云った。
「ただ、何を考えてるのか時々判らなくなるの」
あたしの云うことには逆らわなくって、いつでも従順で、笑顔で愛してくれている彼が、表面上の仮面だったとしたら。
そんなことを考えてしまうあたしは、不届き者なんでしょうか。
だってこの半年間、彼の意見を、彼の言葉で聞いたことが無いって事に、気付いてしまったのよ。
ほんもののアイなんて、信じてるほど子供じみた恋愛をしているつもりはない。セックスに、愛の理論を持ち込むほど白けた女じゃない。でも。
最低限の愛情は、備わっていて欲しいと願った。今回は。
「矛盾してるよね、カヨちゃんて」
アオイは考えながら云った。
「だって、彼に惹かれたって云ってた最初の理由、思い出してみなよ」
思い出しながら言葉を選んでいるのはアオイだった。あたしはアオイが何を云おうとしているのかなんて、最初から判っていた。
「何を考えているのか判らないところが、ステキだって云ってたでしょ」
覚えてるよ、そんくらいのこと。
○ ◎ ○
「あいを確認する行為」
いつの時代でも少女漫画のヒロインは、多少強引で、ちょっとミステリアスな雰囲気を持った男の子に憧れを抱く。
あたしが彼に最初に興味を持ったもの、同じだった。
少し女性っぽい、物腰柔らかな対応と口調で喋る彼の中に、陰を見付けたからだ。その、陰、が何なのかは探る気もなかったし、訊かなかった。禁忌に触れてしまうことかもしれない、と心配したからではない。もしかしたらそれは、本人も気付いてないところで出てしまっている部分だったかもしれないし、正直その内容が何なのかなんてどうでもよかった。ただ、あたしを愛してさえいてくれれば。
「ねぇ、」
猫なで声を出す。恋人にだけ聞かせる、甘えた声。
「お昼ご飯、何が食べたい」
頭の悪そうなぶりっ子丸出しの声を外で出しても、彼は厭な顔ひとつ見せない。それどころか手を腰に回してきて、カヨが食べたい、なんて云ってのける。
「もう。人が見てるってば」
腰に回した手が尻に下りてきた辺りでピシャリと放つ。社交辞令のような、一応の膨れっ面を作って。彼は穏やかに微笑む。そうやっていつも、あたしたちはバカップルの様に振舞う。
「パスタが食べたいな」
デートでランチといえば。と思い付くことを云う。絶対彼は反対しない。それでええよ、カヨの行きたいとこ行こう、って云うに決まってる。お昼どうする。来週の休みは何して過ごす。何の映画観たい。何を聞いても彼は必ずあたしの意見を伺って、それに同意してくれることが解っているから。
彼は優しい。
最初は、そう思ってた。単純に。莫迦みたいに。
○ ◎ ○
ものがたりの続きが続いていませんが、また別のタイトルでお話を。
このお話は「ウソツキと鈍痛」という書きかけの物語の女の子視点のお話。
沢村のすきなテーマである、セックスと恋愛に関する事柄について、掘り下げてみよっかなーと思いまして、ピックアップ。シリーズのタイトルは↓
「あいを確認する行為」
月嘩
サワムラの主催する小劇団…のはず。2012年に旗揚げ公演を行い、2014年現在、5月公演に向けて準備中。
きょう
サワムラの創作サイト。主に小説を公開中。更新頻度は亀。
蛙鳴蝉噪
コミックシティ参加時の我がサークルの情報サイト。
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乗り物の整備をしている、しがないサラリーマン。
3度の飯より睡眠、パンクなライブ、電車読書、などを好む。
この名前表記のまま、関西小劇団で素人脚本家として細々と活動中でもある。
1997年頃~2006年ごろまで、「ハル」「サワムラハル」のHNで創作小説サイトで細々とネットの住民してたがサーバーダウン&引越しによるネット環境消滅が原因で3年ほど音信不通に。。。
あの頃の自分を知っているヒトが偶然にもここを通りかかるのはキセキに近いがそれを願わずにはいられない。