八月二十九日を、俺は忘れない。それは、ハエちゃんと二人きりで出掛けた三回目の日だ。二人で出掛けたところと云えば、俺が借りてたビデオを返すために行ったレンタルショップか、夕飯を食べに行った拉麺屋くらいのものだ。その日は拉麺屋に食べに行った帰りだった。歩いて行った俺は、ハエちゃんをアパートの下まで送っていった。二階に住むハエちゃんは、じゃあ、と云って一段足を掛けて振り返ると、突然俺の右頬に手を触れて、目蓋の上に唇を載せた。眸を開けると、ハエちゃんは悪戯に笑って、そのまま階段を駆け上がっていった。まだ手を繋いだことも無かった。彼氏になったわけでもなかった。でも、ハエちゃんからキスしてくれた。それは、彼女になってもいーよ、と云う意味なんだろうか。その場で何も返せなかった俺に、後からわざわざ話を掘り返す勇気が持てるはずがない。否、そんなことはどっちでもいい。別に、どんな関係だっていいんだ。今は確実に、俺は彼女に好意を持ってもらえている。それだけで、充分だ。
「云ってもええかな、」
臨時収入があったから夕飯奢るよ、と云った日の帰り。ハエちゃんが突然云った。何、と聞き返すと、少し間を空けて彼女は口を開いた。
「パチンコは、止めたほうがいいよ」
え、と思わず聞き返しそうになる。ハエちゃんに、パチンコをやる話しはしたことが無かった。何で判ったの、と聞くと、臨時収入と煙草のにおい、とハエちゃんは答えた。
「うちが、タケ兄ちゃんの趣味に口出す資格は無いけど。でも、賭け事は波があるもんやから。……止めて欲しいな」
ハエちゃんの声は、不思議だ。その声で云われた言葉は、力を持つ。俺は、何かとても悪いことをした気になって、判った、もう行かないようにする、と誓った。
「行きたくなったら、うちを呼んで。会いに行くから」
そう云って、ハエちゃんは微笑んだ。
もう行かない、と云ったのは本当の気持ちだ。でも俺の目の前では、七回連続の確変で回る新海の台があった。何故こんなことになったのか、事情がある。朝からこの台に座った友人が、二回目の確変を引いた後、急用が出来て席を外すことになったのだ。その連絡に捕まったのが、俺しかいなかったらしい。あまり気は進まなかった。それに、少しの罪悪感を感じた。でも、自腹をきって始めたわけじゃないし、俺は友人を手伝っただけだ。だからきっと、許してもらえる。ハエちゃんとの、誓いに。
友人と入れ代わってから、五箱積んだ。時間にして、どれくらい経っただろうか。隣の席の人間は立ち去り、しばらく空き台になっていたが、俺の台の大当たりが終わった時に、誰かが座った。
「最近来ぇへん思ったら、こんなとこ居ったんか、タケ」
引かれるように振り返った。背筋に、軽く電流が流れた感じがした。その名で俺を知っている人間なんて、連中しかいないはずなのに。
隣の席には、同年代くらいの男が座って俺を見ていた。見覚えのある顔。
「ピース」
俺はその名を口にして、一瞬止まった。
「タケ、台、台見な」
その声で我に返った俺は、慌てて力の抜けていた右手を動かした。
「めちゃ調子ええやん。俺に一箱、投資してや」
「悪いけど、これ俺の台じゃないんだよね。只今、留守番中」
気軽に話しかけてくるピースをちらりと見て、云った。なんや、と残念そうに返したピースは、暫くしてまた口を開いた。
「女、出来たんやろ」
俺は台を見たまま、眼を細めた。答える気は無かった。と云うより、明確な答えが用意出来なかった。俺が黙っていると、ピースは勝手に話を続けた。
「大体みんな、そうやねんて。恋人が出来ると、足洗たなんねん。後ろめたいこと、したないからかな。それか、もう出来なくなるんや」
悟りを得たように、ピースは喋った。
「コイをすると、全ての仕合わせが手に入った気持ちになる。俺たちのやってることは、結局、犯罪やからな。そこまでして手に入れる金に、価値が見いだせなくなるんや」
画面に、一が並んだ。八回目の確変大当たり。俺の台の台番が放送され、従業員がシマに入ってきてドル箱を下げ、空のを置いた。人影が遠ざかる。と思ったら直ぐに、引き返してきた。
「留守番さして、悪かったな」
戻ってきたのは従業員ではなく、この台を最初に廻していた友人だった。用事が終わった為、戻ってきたらしい。まだ確変で回ってるのか、と彼は喜び、今持合せが無いから明日潰した時間分のお礼を払うよ、と云った。その様子を見ていた隣の台のピースは何も云わずに立ち上がり、店を出ていった。俺も友人と二言三言、言葉を交わすと、シマを出た。店を出ると、入り口にピースが立っていた。
「もう、来ぇへんのやろ。名簿から名前は消したん、」
「まだやってない」
ピースは煙草を吹かした。吐き出された煙から、軽く薄荷のにおいがした。以前、仕事で一緒になったとき、緑の縁取りのある箱から煙草を出していたのを思い出す。その時は無性に煙草が吸いたくなって、一本貰った。喉飴の味がしたのを覚えている。鼻に、風が吹き抜けて。二服目を吸いたいとは思わなかった。俺は、時間を潰したいときだけ、煙草を吸う。買うのはいつも、セブンスター。旨いと思ったことはない。煙草なんて、出来るだけ不味いほうがいい。出来れば、吸わないほうがいい。ピースはいつも煙草を銜えていた。銘柄は、忘れた。
思い立ったら早ぉ行動したほうがええ、時間が経つと足を運ぶのが厭になるから、とピースは云った。向かいの道路の信号が、青になる。人の流れが動きだすのに乗って、俺はピースと別の方向へ向いた。人混みの、横断歩道の真ン中で、ピースが振り返る。
「もう、戻ってきたらあかんで」
行き交う人が、ちらちらと彼を見ながら通り過ぎる。俺は、やっと届くくらいの声で答え、ピースに背を向けた。
「戻らねぇよ。お前とも、さよなら、だ」
会いたいからと電話を掛けると、ハエちゃんは仕上げなければならないレポートがあると云った。それを聞いて俺も、珍しく翌日の予習があったのを思い出した。その事を何気なく口にすると、じゃあ家で一緒にやろう、と受話器の向こうから返ってきた。
「散らかってて、ごめんな」
そう云われて上がったハエちゃんのアパートは、思っていたよりずっと広かった。台所と部屋の間切りはされていて、部屋は一間だが八畳あるらしい。畳の真ん中に、蒲団の掛かっていない古いこたつ机が置かれていて、その古さ加減の雰囲気が、普段のハエちゃんの恰好とよく似合っていた。
時間が丁度昼時だったため、飯を食べることになった。一緒に狭い台所に立ち、料理をする。そして、低い天上のアパートの一室で、同じ机の上で一緒に飯を食った。それだけで、もう満足だった。もしかすると、そんな事をずっとしたかったのかも知れない。何気ない、日常の。小さな仕合わせ、ってやつに憧れていたのだ。きっと。
予習が、ハエちゃんのレポートより早く仕上がった俺は、その場に寝転んで窓の外を見ていた。アパートの二階は小さなベランダになっていて。周りの建物の隙間から、僅かに空が見えた。雲が流れていく。あれは、高層圏だろうか。ここの風は、それほど吹いていない。
視界の隅で、洗濯物がなびいているのが判った。一つのフックに、幾つもの洗濯挟みが付いているやつだ。それに吊るされているものは大抵、靴下や下着と相場は決まっている。だから敢えて、俺はそれを見ないようにしていた。それとは反対側にある、空の切れ端に視線を集中させる。雲が、流れていく。空が狭すぎるせいか、勢いよく流れていた。白と碧のコントラストが、鮮やかに眼球に焼き付き。そして、何も見えなくなった。眼を開けると、雲は途切れて、碧がずっとそこにへばり付いていた。風が吹いた。視界の隅の洗濯物が、棚引く。自然に、そこに眼が行った。あ、と思った。それは、見ないようにしていた予想通りの女物の下着の所為だけじゃない。むしろ、その中に一緒になって吊るされていた、トランクスの所為だった。
「何、」
俺が声を上げたため、ハエちゃんが顔を上げた。俺は慌てて、何でもない、と云った。
以前、TVの特集で聞いたことがある。女性の一人暮しは空き巣に狙われやすいから、わざと男物の下着を窓に掛けておくのだ、と。そうすれば、泥棒もその家に入るのを躊躇うだろう。なるほど、と思った。でもそれを買いに行ったハエちゃんは、想像付かなかった。否、余計なお世話だ、きっと。そんなことを考えるのは、失礼だ。
「あれ。青橋さんは、」
開口一番、俺はそれを聞いた。コンビニのバイトの為に店に入ると、いつもこの時間帯に入っているハエちゃんの姿が見えず、カウンターでは健一郎が棚の煙草を並べていた。
「なんか、体調悪いらしいっスよ。昨日から休んではるし」
そんなことは、知らなかった。俺は、云い知れぬショックを受けて、暫く茫然と動いていた。ハエちゃんの体調が悪いことを二日間も知らなかった自分にも失望したし、バイトを休むほどの体調不良を云ってくれなかったハエちゃんにも、淋しさを感じた。
いつも通り話しかけてくる健一郎の言葉も、半分耳から流していたが、健一郎がハエちゃんの時間を代わる事になった話は聞こえた。二日前の夕方、健一郎がバイトに入っている時に、体調が悪いので出来れば代わってほしい、という電話があったそうだ。健一郎は自分の時間の続きで三時間余分に入ればいいので、すんなりと代わったらしい。
「そういえば、ギンの体調が悪いから、って云ってましたよ」
「ギンって何だ、」
「さあ。ユーロウさん、知らないんスか。……何やろ。ペットか何かかな」
ペットは飼っていないはずだ。でも、ギン、が何を指しているのか、まるで検討が付かなかった。もしかしたら、健一郎の聞き間違いかも知れない。身体の具合の悪い部分を云ったのを、電話で聞き違えただけだったのだ。それでも。
案外俺は、ハエちゃんに付いて何も知らないのかもしれない。俺が知っているのは、250ccのバイクに乗っていて、企業内専門学校に昼間通う一年生で、夜のコンビニでバイトをしていて、首にいつもスカーフを巻いている十九歳の女の子、と云う事だけなんだろう。
ハエちゃんのことは、すきだ。でも、この気持ちは何だろう。相手の知らない部分を知ろうとして、不安になるのがコイだ。もしも、お互いの秘密が全て無くなってしまえば、コイは成立しないだろう。知らない部分は、見てみたい。たとえそれを見て、多少の動揺をしたとしても、きっとこの不安は拭い去ることが出来るから。だから、会いに行きたい。今、直ぐにでも。
健一郎が帰って、深夜一人になった時、たまたま俺は事務所の机の上に、ハエちゃんの持っていた黄色い巾着を見つけた。それで、僅かな迷いに決心が付いた。
日付が回って、翌日の正午近く。俺はいつもより早起きして、ハエちゃんのアパートに向かった。俺は、夕方四時半から夜の十時までが学校。コンビニのバイトがある日は、その後、零時から朝の六時まで。それから、眠りに付く。ハエちゃんの体調が、もし回復していたならば、今頃は学校に行っている時間帯だ。出ないなら、それでいい。家にいたなら、まだ体調が思わしくないと云う事。忘れ物を届けたついでに、何か看病が出来れば丁度いいだろう。
この間来たときに開いたドアの前で、立ち止まる。呼び鈴代わりのブザーを鳴らした。
「はい、」
少し間があって、声と共にドアを開いたのは、知らない少年だった。
俺は慌てて、ドアの上の壁に掛かっている表札を見返した。そこには、二〇三 青橋、と書かれている。
「青橋八重さんのお宅ですよね」
改めて確認する俺に、少年は、そうですけど、と短く答えた。
「あの。ハエさんは、」
「学校行ってます」
少年は片足でドアを固定し、首を傾げて左手で頭を掻いた。脱色した僅かな髪を耳の後ろで二つに分けて縛り、左耳には輪っかのピアスをしている。年の頃、十四、五歳程度。細く鋭い吊り目に、左頬から顎にかけてある鋭利な傷跡は、女の子のようなその髪型とは不釣合いだった。
暫しの沈黙。少年は答えるだけで、何かを聞いてくる様子はない。
「君は、ハエさんの弟さん、」
「いいえ」
「従弟」
「いいえ」
じゃあ。もしかして、この少年が。
「……ギン。」
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ユーロウ(タケ)の、パチンコばっかりやってる日常。
今ではそんなに悪いとも思いません。
ですが、これを書いてた当時(サワムラ・19歳)はタバコの煙に巻かれて続けていたパチ屋(スロ担当)のバイトをやっと辞めた頃で、打子バイトの知人が店と雇い主との板ばさみによるストレスで胃を壊したところでした・・・。
打子バイトは堂々とバイト募集してるし、別に犯罪ではありませんよ。一応。
今のサワムラと照らし合わせると、退廃していく気分とは逆の心理のユーロウくんですが、でも、身に染み付いた業はなかなか消せない、というところを云いたい。
4話目は、ギン&ハエの日常やギンについての話でしたが・・・・・・。
「ミシェル・リーの泪」、ここで一旦終了。
地味にここまでしかまともに残っていなかったため。
ユメ、なんて叶えるもんじゃない。
叶わないから、ユメなんだ。と、最近思う。だから掲げる理想は高い方がいい。間違ってもそのユメが、実現してしまわないように。
「ユーロウさん、そろそろ新曲やりましょうよ」
健一郎が間延びした声で云った。廃棄の椅子と机が散乱する屋上行きの踊り場に、古いドラムセットが置いてある。俺たちは、高校の夜間部の俺の授業が終わった放課後に、気が向いたときだけ其処に集まって好き勝手に楽器をいじった。
「新譜。誰が書くんだ、」
「ユーロウさんに決まってるじゃないですか。ギターなんだし」
面倒臭げに生返事をする俺に、健一郎は驚いたように声色を変えてみせた。
健一郎と出会った場所は、此処だった。一年前。健一郎が、まだこの学校に通っていた時のことだ。授業中、何処かから微かに聞こえてくるリズム音に興味を持って、此処を覗いたのが切っ掛けだ。だから俺たちは、高校の先輩後輩の関係になる。当時の俺は入学したてのぴかぴかの定時制夜間部の一年生で、彼は全日制の三年生だった。
音楽を、やりたかった。その為の仲間が、欲しかった。
そう思い立って、三年になる。そもそも俺がこの年になってから、一度中退た高校を行き直そうだなんて思った切っ掛けも、それだ。いい作品を作るためには、柔軟で多彩な知識があったほうがいいと、当時は真剣に思ったからだ。
やりたいことが何もなくて、目指すものが何もないのに、毎日を過ごさなければならない事は思ったより苦痛だ。ただ生きるためだけに飯を食い、ただ生きるためだけに日雇いの仕事をする。それは、終わりの無い迷路に迷い込んだようで、目の前に横たわっている膨大な時間に絶望したくなる。
だから、目標が必要なんだ。この坦々とした日常に、転機と終点を作るために。夢を持つと、それに向かって努力する時間と、それに携わらない休暇の時間が生まれる。生活に於て、するべきことの優先順位が生まれる。やりたいこと、を答えられると云う、安心感。夢があるから出来る、言い訳。夢を持つだけで、其処に自分の居場所が生まれる。
だから、大事なんだ。夢を持つことは。
「今やってる曲も満足に出来上がってないのに、何が新曲だ。大体、俺たちの演奏技術は低すぎるんだよ。何て云うか、もっとこう深みのある音が欲しいっていうかさ……」
「だから、ベースとキーボードとボーカル探しましょう、って云ったじゃないっスか。そもそも、ギターとドラムだけのバンドなんて、聞いたことないっスよ」
「バンドやりゃいい、ってもんじゃないんだよ。俺は音楽がやりたいの。健一郎だってそう云ってただろ」
「だから、何が違うんですか」
会話の内容だけ聞くと、俺たちは真剣な音楽好きで、何かしらのゴールに向かって希望を持っているように聞こえるかも知れない。けど実際は、二人のこんなやりとりは毎度のことで、まるで進展が無い。第一、だらだらと声を伸ばして喋るため、やる気なんてものは全く感じられなかった。
俺は、夢と云う肩書きのため。健一郎は、仕事の合間の趣味。俺たちの音楽なんて、その程度のものだ。その程度の、ものなんだ。
たまたま、御堂筋線に乗る機会があって、久しぶりに天王寺の幾つか手前の駅で下りてみた。コンビニのアルバイトを始める前は、よくこの付近を徘徊していた。先月まで不定期でしていた仕事が、この近辺であったからだ。仕事の内容は、至って簡単。天王寺付近の駅で降りて、橋桁のコインロッカーの中にあるメモに指示された場所へ向かって、受け取った袋を持って歩くだけ。時間にして僅か数十分程度で、一回数千円。しかも仕事は、自分の時間のある時にコインロッカーを覗きに来ればいいだけ。
俺の、散歩コースになったこの路を、久しぶりに通った。橋桁の下は何時も通り薄暗くて、陰気臭くじめじめしていた。見慣れた何時もの、古びたコインロッカーを見た。けど、今日は鍵を廻してそのドアを開ける気には成らなかった。警察が居たからじゃない。最近は、ハエちゃんの事で頭がいっぱいで。このドアを開けてしまうと、俺はもう、ハエちゃんに会ってはいけない気がする。
それに、そうやって手に入れた金を使いたくなかった。何故、急にそんな気持ちになったのか、説明できない。今までは、そんなこと考えもしなかったのに。
メモを見ることもなく、道形に真っ直ぐ歩き続けていると、徐々に歩行者の数が増え始め、天王寺の駅前に着いた。国鉄と私鉄を繋ぐ歩道橋の欄干の下では、幾人もの路上アーティストたちが、通りすぎる人々に自分たちを売り込んでいる。似顔絵描き、手作りの装飾品売り、詩人、大道芸人、バンドマン。あらゆるジャンルのアーティストが屯するこの場所は何時も人で賑わっていて、そして夢に溢れていて。俺はその空気に気圧される気がして、この橋の上はすきじゃない。きっと彼らとは、考え方が違うからだ。意識の奥底に、希望と云う名の光を煌々と輝かせているのが見て取れる。同じ夢を語っていても、俺にはその場所を共有する資格がなし、したいとも思わない。
確かに、彼らに憧れた時期も、過去にはあった。路上から、全国的に有名なアーティストになった奴だって、此処からは生まれている。だから、此処はスタート地点だと俺は思った。そのスタート地点に、仲間と共に立ち、いつかそれがライブハウスへ変わることを、例外なく思ったりした。けど、いつのまにか、そのスタート地点に立つことさえ困難なほどに、気力が薄れてしまった。此処にいるのは、所詮名も無き素人。成功するのはほんの一握りであって、此処は聖地でもなんでもない。ただの、排気ガスが充満する、都会の一画なんだ。夢を信じている彼らを、軽蔑していたのかも知れない。何にも意義を見いだせない自分を、見据えないために。
人波に流されるまま橋を渡っていると、交差点の真上の位置で、一人の男がギターを弾いていた。交差点上の橋幅は広く、いつもバンドマンたちが陣取って演奏を披露している。今日も、全部で四組程のバンドが好き勝手に演奏していた。派手にパフォーマンスしているのもあれば、しっとりと聴かせる曲を奏でているのもある。どのバンドの周りにも、多かれ少なかれ足留めした通行人の客がいるのに、ギターの男の周りには、誰一人として立ち止まっている者はいなかった。ポジションが悪いわけではない。簡単なことだ。明らかに彼のギターは下手糞だからだ。夏場なのに、ニットのセーターを羽織っている男は、今にもコードを間違えそうな危なげな演奏で、しかも誰も知らない曲を弾き、嗄れた声で唄を歌った。曲は、恐らく持曲。不特定多数の人間が行き交うこんな場所で客を確保するには、誰もが耳にしたことのある有名な曲をやるのが一番だ。こういう場所では、自分たちに興味を持ってもらう為に、まず名曲のコピーを幾つかやって通行人を足留めし客を確保してから、短い持曲を一つやり、次への足掛かりにするものだ。なのにこの男は、持曲のみ。しかも下手糞。素人ばかりの路上と云えども、その道を専門的にやっている連中の中で、これを披露できるなんて、ある意味勇気ある行動だ。
人の流れを挟んで、俺は偏屈なその男の真向かいに暫く突っ立っていた。嗄れた歌声は、立ち止まって初めて歌詞が聴き取れた。
俺が本気を出せばこれくらいた易いことさ/そう云っている君は一体いつ本気を出すと云うの/いつも適当にものごとを片づけて/軽く世間を擦り抜けて/君はいつになったら本気を見せてくれるつもりなの/余力を残して戦うことは/自分の力をあやふやに見せることは/己に秘められた無限大の可能性を信じていると云う事/稀に起きる奇跡を実力と呼ぶのは/己の限界を認めたくないから/あと少しだけ勇気があったなら/自己ベストを尽くして戦うことが出来るのに/あと少しだけ勇気を出せたなら/君は限界を認められるはずなのに
指の動きを見ていると、何かを連想させた。違和感。何処か、別の何かに似ている気がする。それを考えていると、曲が終わって男の口が開いた。
「びっくりしたやろ」
直ぐには判らなかったが、男は俺に向かって話し掛けていた。
「何が、」
「下手糞さにやって。兄ちゃんも、ギターやってるみたいやしさ」
人波を挟んだままで聞き返した俺に、彼は俺の背中を指して云った。中身の無い、ギターケース。俺の背中には何時も、鞄代わりにしているギターケースがある。中に、ギターが入っていないわけではないが、ろくにチューニングもしてやらない粗雑な扱いは、中身が無いのと同じだ、と思う。男は自分で自覚している通り、演奏技術は一般的に下手だと思われる俺より不味かったが、それでも俺はそれを指摘する気にはなれなかった。彼にはきっと、俺にはない何かがある。説明は出来ないけれど。この橋の上に立った時点で、俺にはないものがあると云う事だ。きっと。
「一本貰うよ。幾ら、」
彼の胡座をかいた足下に置かれている、ギターケースの中に広げられた数本のデモテープを指して、俺はその前にしゃがみ込んだ。
「まじで。おおきに」
男は派手に喜んで、蔓延の笑顔を作った。俺は、尻ポケットから財布を取り出して、指定された五百円札を手渡した。
「兄ちゃんは学生さん、高校生、」
何気に聞いてくる男に、自分の職種を云い当てられて一瞬驚いた。が、直ぐに単に年齢を低く間違えただけだと気づいて、訂正を入れた。
「そうだけど。事情があって、年は二十三」
「二十三、俺と同い年やん。じゃあ、マウスライトってハコでよくライブやってた、フライ・バイ、ってバンド知らん、」
男は急に眸の輝きを増し、同胞に話すような口調になった。いつの時期のことを云っているのか判らないが、俺はこの辺りのライブハウスのことは知らないし、音楽をやっているくせ、地元のインディーズバンドの事も殆ど知らない。悪いけど一寸、と返すと男は、そっか、と云っただけで特に気にした様子もなく続けた。
「俺、つい最近までそのフライ・バイのベースやっててん。まぁいろいろあって、バンドは解散してんけどな。もう一回、路上からやり直そうと思ってギター始めてんけど、やばいわ」
苦笑いをする男を眺めながら、演奏中の彼の指の違和感は、ベースでないことからくるものだったのかも、と思い返した。
そうして俺は、カセットテープを手にして立ち上がった。じゃあ頑張れよ、と声を掛けた俺に、男は笑顔で応えてから、慌てて付け足した。
「俺の名前。首藤一徹ゆうねん。よろしくな。あんたは、」
「……トン・ユーロウ」
名乗った後に、別に俺はあんたみたいに真面目に音楽やってるわけじゃないよ、と云いたかったが、言葉は喉を支えて出てこなかった。
首藤から買ったカセットは二曲入りで、俺が路上で聞いた曲には「勇気をください」というタイトルがつけられていた。レコーディングされた音は、路上で聴くほど危なっかしくもなく、歌詞もより明瞭に聴き取れた。
コンビニの深夜の勤務時間に、健一郎がやってきた。ここしばらく、学校の放課後も顔を出してこなかったので、久しぶりに会う事になる。
ペットボトルの補充をしていた俺を手伝いながら彼が喋ることは、たわいもない日常の雑談。一仕事終えて飲物をレジに通しに来た健一郎の前に、俺はクリップ留めしたレポート用紙を置いた。
「何すか、これ」
きょとんとしてそれを拾い上げた健一郎は、紙に眼を通して声を上げた。
「新譜っスか。それも三曲も」
「流れで書いたから、どれか削って、やる曲選んどいて」
どうしたんすか、急に。と云う健一郎を無視して、俺はカウンターに買い物籠を置いた客の接客に没頭した。
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むかしむかしに書きかけた古い物語「ミシェル・リーの泪」のつづきです。
これは、まだ私がPCを持っていなかった時代に、ワープロで打ち込み3.5FDに保存していたデータを引っ張り出してコピペしています。
なぜ、今更この話をアップしているかといいますと・・・・・・最近、すっごくこーゆー気分なんです。
この物語の主人公、トン・ユーロウの心境にすっごく似ています。
年は、23歳の彼より少し過ぎてしまいましたが。
そして、この物語を書いてたときの私の年齢は、健一郎と同じ19歳でした。
独言のように何気なく、バンド仲間の健一郎に、仕事紹介してよ、と云ったら、彼が常勤のパン工房以外にしているコンビニのアルバイトが、丁度人手が足りなくなっていると紹介された。時給は、六百八十円。深夜料金でも、八百五十円。人手が足りなくなっているのは深夜帯だから、俺が入る時間帯は八百五十円になる。
つい先月まで、週三、四で入っていた仕事が、数十分で五千円程度の稼ぎになっていたことから考えると、やる筈がない、というより、出来る筈がない条件下だ。それでもその時の俺は、実にあっさりとこの条件を飲んだ。
稼ぎの問題ではなく、この退廃していく退屈な日常を変えてくれる環境が欲しかったのだ。切実に。
でもそれは、運命だったのかも知れない。なんて、後から思った。採用されて働き始めたこの場所で、俺は、恋に墜ちたからだ。した、ではなく、墜ちた、と云うのが実にしっくり来る。一目惚れ、なんて世間ではよく云うけど、それとは違う何かが、彼女と出逢った瞬間に胸の奥で弾けたのだ。小っ恥ずかしいことを云っていると云われそうだが、こんなことは滅多にない。というより、もう来ないかも知れない。否、きっと、来ない。だってこれが、俺の最後の恋なんだから。
その娘は、俺が初めての勤務に入った時の入れ代わりで働いていた。夜の十時から一時までの三時間勤務の時間帯で働いている人だった。紹介した手前、気を使ったのか心配したのか、様子を見に来た健一郎が、割と親しげに彼女に話しかけていた。
初めまして、と最初に口を開いたのは、彼女の方だった。一時間だけ勤務時間が被るんですよ、とその時初めて聞かされた。骨の奥底で、何かが鳴った。何か、今までずっと突支えていた物が取れて、視界が急に明瞭になった感じが、した。
青橋八重、と印刷された名札を付けた女の子は、俺より随分幼く見える。化粧っ気のない顔が、そう見せたのかも知れない。健一郎がやってきて、「青橋さんは、俺と同じ十九なんスよ」と紹介した。
印象的だったのは、幼さを宿した顔から放たれる、意外に低音で掠れた声。特別愛想も良くなく、然して美人でもない彼女の何処に魅かれたのか、自分でも判らない。けど、半端丈のズボンに短いレザーのブーツ、夏なのに唐草模様の薄手の長袖シャツを着て、紅い水玉模様のスカーフを首に巻いた、何処か変わった服装の彼女からは、懐かしい馨りがした。
これが恋だ、と思ったのはその少し後になるが、その前もそれからもずっと、俺は彼女と喋る事は無く日々は過ぎていった。週五勤の彼女と、週三のペースで顔を合わせていたのだが、一ヶ月経って判ったことと云えば、彼女の名前の「八重」は、ヤエ、ではなく、ハエ、と詠むと云うことくらいだ。
無口な子なのか、と思っていた。でもそれはすぐに、そうでもない事が判った。コンビニのバイト仲間の親睦会で、「ヤエちゃん」という愛称で呼ばれながら、他の仲間と意外によく話していたからだ。
意外だったのは、それだけじゃなかった。焼酎を何杯も追加して平気な顔で話し続けるハエちゃんは、仲間内の誰よりも酒に強いらしい。酒が飲めない俺は、彼女と楽しく呑み交わすことが出来ないのを残念に思いながら、烏龍茶を流し込んで朝になるのを待った。
その朝の事だ。何を思ったのか俺は、単車を置いてきていたハエちゃんを半ば強引に車に乗せ、家まで送り届けたついでに、告白地味たことを口走ってしまったのは。
少し困った表情のハエちゃんは、付き合う事はたぶん出来ない、と云って。けど、俺のことはすきだと云ってくれた。
「レンアイって、お互いを認め合う事やんな」
ハエちゃんは云った。
「恋人がいる人って云うのは、少なくともその相手には自分という存在を認めてもらっていて、必要とされているってことやと、うちは思うねん。誰にも必要とされずに生きていけるほど、人間は強くないから。だから人は、コイをしたがるんや。自分の為だけに息をしている自分を、必要だとコトバにして云ってくれる人が一人でも確認できれば、うちらは楽に呼吸をすることが出来るようになるから」
ハエちゃんはちょっと変わった子だ。
身形も、声も、考え方も、名前も、バイトをしている時間帯も。
そんなところに、魅かれたのかもしれない。良く判らないけど、ただひとつはっきりしている事は、俺はハエちゃんがすきで。何らかの形で結ばれた絆が、欲しかった。それはもしかしたら、「コイビト」というありふれた展開でなくてもいいのかも知れない。
「人に必要とされるよーな人間や無いですよ、うちは」
そう云ってハエちゃんは、はにかんだように笑った。
「トンさんは、ええ人やし、男前やから、うちなんか相手にせんでも、もっとええ彼女が出来ますよ」
「でも俺は、青橋さんともっと一緒にいたいな。もっといろんな話をしてみたい。……駄目、」
何かに後押しをされているようで、俺は普段からは考えられないような科白が、すらすらと口を吐いて出てきていた。表情を崩したハエちゃんは、俺の眼を直視した。
「うちも、もっといろいろ話したいですよ。トンさんのことは、すきやから」
言葉は魔法だ。
否定的なことを云われていても、すき、という言葉を聞いただけで、こころが少し暖かくなる。それはきっと錯覚なんだろうけれど、それが続いていくうちに、光が見えるかもしれないことを期待してしまうのは、罪ではない筈だ。
「じゃあさ、その『トンさん』って云うの、止めようよ。後、敬語も」
調子付いた俺は、自分は「ハエちゃん」と呼ぶことに決めて、切り出した。いきなり名前では呼び難いと、ハエちゃんは俺に渾名は無いのか、と云った。渾名らしい渾名で呼ばれたことは、実際ほとんど無い。友人の大半が名前を呼び捨てにしてくるし、学校の連中は苗字に「さん」付けだ。唯一、本当の名前で呼ばれない時があると云ったら、最近依頼の来ないもう一つの仕事の内だ。其処では、誰もが必ず愛称で呼び合い、本名は決して判らない。俺も、仕事中は名前の字を読み代えて名乗っている。暫く考えた末、俺は『タケ』と呼ばれていることもある、と話した。
「じゃあ、タケ兄ちゃん」
何それ、と聞き返した俺に、ハエちゃんは大真面目な顔で答えた。
「だって、うちより四つも年上の人を、呼び捨てには出来ませんよ」
敬語は苦手やから、すぐに消えると思いますけどね。と云ってはにかんだハエちゃんは、とても可愛かった。
「年なんか気にしてたら、話しなんて出来ないよ。俺は、ハエちゃんと同じ位置に立って話がしたいから。いきなりは思えないかもしれないけど、同い年の男だと思ってよ」
それを聞いてハエちゃんは、笑った。
「そうやなぁ。タケ兄ちゃんは、十代みたいな恰好してるしなぁ」
それは、派手な日本語ロゴの入ったT-シャツに、草臥れたスニーカーとジーパンを履いて、ターバンを頭に巻いた、バンドマンな服装の俺を云ったのだろう。
ハエちゃんの云った「すき」は、完全に友達の領域を出てはいない。下手をすれば、彼女にとって俺は、単なるちょっと仲のいいバイト仲間なだけなのかも知れない。でも。ハエちゃんの笑顔を見てると、思うんだ。
焦らなくたっていい。ゆっくり、時間を掛けて親しくなれれば、きっと素敵なラストが用意されている筈だから。
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むかしむかしに書いた物語を思い出しました。
昭和末期。まだ、五百円札が使われていた時代の物語です。
月嘩
サワムラの主催する小劇団…のはず。2012年に旗揚げ公演を行い、2014年現在、5月公演に向けて準備中。
きょう
サワムラの創作サイト。主に小説を公開中。更新頻度は亀。
蛙鳴蝉噪
コミックシティ参加時の我がサークルの情報サイト。
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乗り物の整備をしている、しがないサラリーマン。
3度の飯より睡眠、パンクなライブ、電車読書、などを好む。
この名前表記のまま、関西小劇団で素人脚本家として細々と活動中でもある。
1997年頃~2006年ごろまで、「ハル」「サワムラハル」のHNで創作小説サイトで細々とネットの住民してたがサーバーダウン&引越しによるネット環境消滅が原因で3年ほど音信不通に。。。
あの頃の自分を知っているヒトが偶然にもここを通りかかるのはキセキに近いがそれを願わずにはいられない。